問1.まず躁鬱病とは何か?
躁鬱病(そううつびょう)は、気分障害の一種で、躁状態とうつ状態の両方を経験する病気です。
躁状態では、強い興奮状態、興奮や高揚感、多弁、自信融合、睡眠不要などの症状が現れます。
一方、うつ状態では、深刻な憂鬱や無気力感、自殺願望などの症状が現れます。
この病気は、生物学的、心理的、環境的要因が原因と考えられており、適切な治療が必要です。
治療には、薬物療法や心理療法、生活習慣の改善などが含まれます。躁鬱病は、早期かつ適切な治療によって管理できます。
問2.発症に至った経緯
私は20代の前半スーパーで働いていた。売り場も任され、お付き合いしていた女性もいて順風満帆と言えた。
しかし、ある日、売り場とバックヤードをつなぐ扉の音を聞くと売り場で呼吸ができなくなる症状が現れた。
診断はパニック障害。
その病院の医師は初診の私に7種類もの薬を処方した。
はじめは驚いたがパニック障害の治療というものはこういうものだろうと薬を服用しはじめた。
服用3日目。
朝、布団から出られず嘔吐までした。
これがすべてのはじまりだった。
再びの診察でまた、すべて違う7種類前後の薬。これを半年繰り返すうちに職場にもいけなくなり職を失った。
このままでは駄目だと知り合いに違う医師を紹介してもらい診察を受けた。この時の診断は重度のうつ病。
しかし、治療が進む中で先生と意見が対立したり通院経路で自分の気分を害する相手を見ると攻撃的な態度を見せたり、何かうまくいくと饒舌になったりすることがしばしば見られた。
結果、診断結果は躁鬱病(躁鬱病)(双極性Ⅱ型障害)となった。
問3.躁状態の症状
躁状態であることはほとんどないが、症状がでるとその自覚はなくすべてが幸せに感じる。
ちょうどアルコールを飲んだ時のように。
はじめは妻を戸惑わせ実家の母と二人ですぐに診察を受けるように説得されたこともあった。
問4.鬱状態の症状
これは酷く、今、考えると本当に妻に苦労をかけた。
妻は仕事に生きながら家で自殺していないかと常に気にかけていなければならなかったからだ。
酷いときは「頭から布団をかぶり布団の中に誰かいる」とおびえていた。
そんな私の姿に耐えながら隠れて泣いていたのを今でも申し訳なく思っているし、もうあの頃には戻らないと誓った。
問5.薬物療法の効果と副作用
治療は主に薬物療法。症状に合わせて薬が変わるがそのたびに震えや眠気、だるさ、幻聴、幻覚などさまざまな症状を経験した。
そうやって薬を渡り歩く中で自分にあったものを探すのが薬物治療なのだ。
問6.家族や友人の支え
この病気になって友達は誰もいなくなった。死にたいとメールをしたり、夜中に突然家に訪れたり、そんな人間と付き合いたい人なんていない。
でも、妻だけは離婚することなくそばにいてくれた。
共に薬物以外の方法を探し、試してくれ、今は薬だけの力ではなくセルフコーピング(運動、食事改善、瞑想など)の力もずいぶん大きい。
問7.夫婦生活の変化
私たちは11歳の年の差婚で妻は年上の男性にひっぱられて結婚生活を送ることを夢みていた。
しかし、現実は述べた通り、むしろ、妻が一家の主で私をサポートしてくれている状態になっている。
問8..躁鬱病との付き合い方
一言でいうと妻はもう慣れている。こういう場合はこういう扱いをすればいいとわかっているのだ。
本当に感謝しかない。
問9.コミュニケーションの工夫
今は私が主夫で妻が働いているので日中は干渉しない。
例えば、お昼にLINEをしたりはしない。
また、互いにやりたいことがありその趣味を邪魔しない。
一人の時間を持つことがうまくやっていく秘訣だ。
問10.夫婦関係の深まりと躁鬱病との向き合い方
病気との戦いの中で夫婦として、いや、戦友としての信頼関係は随分深まった。
そして、二人で戦えるので闘病生活も随分楽になった。
問11.妻の出産と子育て
5年前。妻から30歳になって子供ができなかったら諦めると宣言され、病気は完治していなかったが子供を授かることにした。
でも、いざ妊活をはじめてもうまくいかなかった。
病院で治療を受けようとしていた矢先、ついに授かった
でも、出産後大事件が起きる!
躁うつ病の私が子育てがどこまでできるのかを心配して色々と考えていたのに妻が産後鬱になってしまったのだ。
火事場のバカ力というがこの時だけは躁鬱病の症状はほとんどでなかった。
おかげで妻のサポートに専念できた。
問12.子育てと鬱病の両立
いよいよ、子育てがはじまり、薬物療法で症状を抑えている限り順調に見えた。
症状がでたのは保育園に預けた時。
子供が保育園に行くようになり安心したのか症状は急に悪くなった。
保育園の連絡帳に「私のことはいいので子供のことだけは頼みます」と遺書めいたことを書いて迷惑をかけたほどだ。
それでも、お迎えにも行き育児全般の活動をした。
これは保育園の先生の協力によるものが大きい。
問13.家族と周囲の支えと協力
妻は変わらず私を支え続けてくれている。
私を息子として会社の社長として共に働いて心配してくれていた父は5年前にこの世を去った。
そして、友達も誰もいなくなってしまった。
それでも息子がいたから出会えた保育園の先生方が「家族まとめて面倒みます」と力強い言葉をかけてくれ卒園まで私自身の悩みにも付き合ってくれた。
捨てる神あれば拾う神ありだ。
問14.闘病生活の続き
いまだに闘病生活は続いている。
調子が悪くなると通院が増え、薬が増え、でも、今は最高の薬がある。
5歳の息子だ。息子にも父の気分が変わるのは自分のせいではなく病気のせいだということをわかってもらうために壁に悪者キャラクターの絵を張って説明している。
最近では今日はイライラン(キャラの名前)?サゲッチ(キャラの名前)?フーミン(キャラの名前)?と私たちが名づけたキャラの名前で症状を聞いてくれる。
でも、息子もやがてこの病気の本当のことを知るだろう。
それまでには胸を張って父親でいられるようになりたい。
問15.躁鬱病との向き合い方
今、躁鬱病の人。そのご家族に伝えたい。
この病気は治すものではない。うまく付き合うものだ。
振り子が揺れるように気分が揺れているのだ。
これは止められないし、誰にだってある。
だから、フラットに保つ努力。
無駄に力を加えない努力が必要でそれが病気と上手く付き合う秘訣なのだ。
問16..当面の治療方針や生活の工夫
最近は投薬を自分の意思で減らし、運動と瞑想、マインドフルネスを取り入れている。
生活もリズムを乱さないようにできるだけ規則正しく決められた時間に決められたことをしている。
問17.希望や目標
前述したが心は振り子だ。
その振り子が簡単に触れてしまうデリケートな心こそ躁うつ病だから強い軸を持ちたい。
そして、家族に顔色を伺わせないそんな生活をしたい。
そして、また、友達や仲間とめぐり合いたい。
まとめ
躁うつ病の闘病の中での結婚8年間を一問一答形式で振り返ってみました。
一つ一つの質問に書ききれないぐらいの想いあります。
それが誰かの役にたつならまたの機会に。